3月のことば

 

われらは
善人にもあらず
賢人にもあらず

 電車に乗ると、座席が空いていて座ることができました。「あ〜ぁ、座れてよかった」と思っていると、停まる駅
ごとに、だんだんと混んできました。私よりお年を召された方が、私の前にお立ちになりました。私は、わざとらし
くではなく、黙って席を立って、席をお譲りしました。その方は「ありがとう」と一言おっしゃってくださって、お
座りになりました。そのまま、目の前に突っ立っていると、ずーっと御礼を言わせることになってしまう、そう思っ
て、少し場所を移動しました。同じ車両の扉付近へと移動して立って、こんなことを考えていました。
 「きっと、この車両に乗っている人はみんな、私の席を譲った様子をご覧になって、あぁ、なんてスマートな紳士な
んだろう!と思って見ているんだろうなぁ」
などと心の中に、わくわくするようなくすぐったいような思いを抱いていました。
 これってどうなんでしょう?もちろん他者に席を譲ることは、すばらしいことですよね。だけどその席を譲った私の
心はどうでしょう?心の中では「オレってどう?なかなかやるでしょう!」などと思っているのです。
 私たちは、自分がなし得たことを、認めてもらいたい、褒めてもらいたいという思いが心の中に渦巻いています。他
の人にすばらしことをしてあげたと思っていても、自分の心の中を考えると、本当にすばらしいことをなし得たなどと
言うことは、到底できそうにありません。
 阿弥陀さまはそのような、私のもともと持っている本性を見抜いてくださって、「そんなあなたをこそ救おう」とお
っしゃいました。
 このお救いをいただいた上には、善いことをした、すばらしいことをなし得たと思っていても、「でも、本当の意味
では最善じゃあないんだよな。究極的な意味においては、これで十分ではないんだよな」と、そのことを知らされてい
ます。
 するとそこには、「これじゃあ申し訳ない、もう少し…、もうちょっとだけ…、せめて…」と、さらに努め励んでい
くモチベーション(動機)を持たせていただくことになります。
 阿弥陀さまのお救いには、私の努力は一切不要です。
 でもそのお救いをいただいた私たちは、救われた上には、「せめて…」「もう少し…」と努め励んでいこうとする心
をいただくのです。
 私の持っているもともとの心は、自慢するのが好きで、しんどいことは怠りがちな心です。こんな私の心のままでは
なく、自ら進んでおこなおうとする「たしなむ心」もいただくのです。
 これが浄土真宗・阿弥陀さまのお救いです。

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