2月のことば

 

信心のさだまるとき
往生またさだまるなり

 「鰯の頭も信心から」ということわざを聞かれたことがあると思います。この言葉はとらえ方によって、いろんな
解釈ができますよね。「鰯の頭でもちゃんとした信仰心があれば立派なご本尊になるのだ」とも読めますし、「神も
仏も、鰯の頭も一緒だよ。要は気持ちの問題」とも読めます。
 この言葉は複数の語源情報によると、昔ある地域で節分になると家の入口にヒイラギの枝に鰯の頭を刺したものを
飾る風習があったそうです。なぜそのようなことをするのかと言えば、人類最大の悪鬼神である。「疫病神」が家の
中に入ろうとした時、ヒイラギのトゲに刺さり、鰯の腐った悪臭に驚いて逃げ去って行く、と考えられていたからだ
そうです。
 いま聞けば間の抜けた笑い話のようですが、医学も科学もあまり発展していない時代には、病魔に襲われるという
ことはそのままが死を意味していたのでしょう。お寺にある古い過去帳には幼い子どもたちの死が頻繁に出てきます。
その文字を見ていると、この子の親たちはどれほど辛く悲しかっただろうか、とその時に思いを馳せてしまうことが
あります。当時の人々の生活は、いつも疫病神との戦いであったのかも知れませんね。
 さて、話を「信心」に戻すことにします。「信心」という言葉を普通に日本語で読めば「信ずる心」となります。
つまり、「私が神仏を信ずる心」が信心なのです。ですから、そこには「私の心の有りよう」が常に問題となってき
ます――― 一生懸命なのか、いいかげんなのか、いつも有り難いと思っているのか、思っていないのか…などです。
 自分の心を誤魔化さず真面目に生きている人にとって、これは大変なことです。特にそんな自分の心が「救いの条
件」ともなれば、ギブアップ間違いなしです。私ごとで恐縮ですが、夫婦喧嘩している最中などに”仏さまって有り
難いなあ”などと考えている余裕は全くありません。どうやって敵を打ちのめすか、という心でいっぱいです。終戦
後に”またやってしまった”と自分の情けなさを悔やむことしきりですが。
 さて、親鸞さまは「信心のさだまるとき 往生また さだまるなり」とおっしゃいました。親鸞さまがおっしゃる信
心とは「信(まこと)の心」のことです。それは嘘偽りにまみれた私の心ではなく、清らかな「仏さまの心」のことだ
とおっしゃるのです。その清らかなお心の仏さまが、
 「あなたの苦悩は私の苦悩なのだから、その苦悩の泥中に私も共に身を沈め、あなたを抱きとり、死を超えた豊か
で安らかな真実なる人生(お浄土への道)を歩ませよう」
と私の中に届いているのだと教えてくださったのです。
 そして、そのことに気づいた歓びの心も「信心」と呼びます。なぜなら歓んでいるのは私ですが、歓ばせているの
は「仏さまの心」なのですから。

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